当展示は、2022年8月20日から9月11日までオーストラリアのコンテンポラリー・アート・タスマニアで開催されていた個展を、IAMASの作品審査のために再構成したものです。会場の建築やコンテクストに特化した作品であるため、場所が変わると意味合いも変わってきますが、それでもなお、この作品が投げかける問いの本質は変わりません。
聴こえない声に耳を傾けること。声が持つ力(エージェンシー)ついて。聴覚文化における解釈、記録、再生。そして、これらの問題を他者とともに探求することについて。タスマニアでは、複数の視点から歴史を学び、岩や木々や動物たちと交感し、アボリジニのコミュニティの人々と対話し、現地のアーティストたちと思考しました。
そこには、聴かれることを拒否する声があることも知りました。わたしたちは、全てを聴くことができるわけではないし、聴いたところでわかるわけではない。既存の枠組みに還元されることへの拒否が、そして、その拒否に同意することが、復権につながるからこそ、一人一人の聴く姿勢が改めて問われるのです。その響きに――ケアを伴って――耳を傾けようとするときに、グリッサンの「不透明性への権利」という概念が、実感として立ち現れました。
当展示は、2022年8月20日から9月11日までオーストラリアのコンテンポラリー・アート・タスマニアで開催されていた個展を、IAMASの作品審査のために再構成したものです。会場の建築やコンテクストに特化した作品であるため、場所が変わると意味合いも変わってきますが、それでもなお、この作品が投げかける問いの本質は変わりません。
聴こえない声に耳を傾けること。声が持つ力(エージェンシー)ついて。聴覚文化における解釈、記録、再生。そして、これらの問題を他者とともに探求することについて。タスマニアでは、複数の視点から歴史を学び、岩や木々や動物たちと交感し、アボリジニのコミュニティの人々と対話し、現地のアーティストたちと思考しました。
そこには、聴かれることを拒否する声があることも知りました。わたしたちは、全てを聴くことができるわけではないし、聴いたところでわかるわけではない。既存の枠組みに還元されることへの拒否が、そして、その拒否に同意することが、復権につながるからこそ、一人一人の聴く姿勢が改めて問われるのです。その響きに――ケアを伴って――耳を傾けようとするときに、グリッサンの「不透明性への権利」という概念が、実感として立ち現れました。
当展示は、2022年8月20日から9月11日までオーストラリアのコンテンポラリー・アート・タスマニアで開催されていた個展を、IAMASの作品審査のために再構成したものです。会場の建築やコンテクストに特化した作品であるため、場所が変わると意味合いも変わってきますが、それでもなお、この作品が投げかける問いの本質は変わりません。
聴こえない声に耳を傾けること。声が持つ力(エージェンシー)ついて。聴覚文化における解釈、記録、再生。そして、これらの問題を他者とともに探求することについて。タスマニアでは、複数の視点から歴史を学び、岩や木々や動物たちと交感し、アボリジニのコミュニティの人々と対話し、現地のアーティストたちと思考しました。
そこには、聴かれることを拒否する声があることも知りました。わたしたちは、全てを聴くことができるわけではないし、聴いたところでわかるわけではない。既存の枠組みに還元されることへの拒否が、そして、その拒否に同意することが、復権につながるからこそ、一人一人の聴く姿勢が改めて問われるのです。その響きに――ケアを伴って――耳を傾けようとするときに、グリッサンの「不透明性への権利」という概念が、実感として立ち現れました。
種々の不透明性は共存し、合流することができる。そこで編み上げられる真の理解は、その構成要素の性質にではなく、その組織そのものの
織られ方にかかっている。しばらくのあいだにせよ、本性の底をつきとめようという古くからの強迫観念を、捨ててみることだ。……不透明性への権利は……実際に〈関係〉を、さまざまな自由に立って創設する。
エドゥアール・グリッサン『<関係>の詩学』管啓次郎訳 (p.234-235)
ここで展示されているのは、声の記録の解釈を再解釈し、その記録をさらに解釈したものです。圧倒的に植民地化された耳を通して、幾重もの解釈を重ねられた記録の層から、その織られ方から、わたしたちは何をどう聴くのか。
アボリジニの友人は、知は振動として伝わる、と言いました。
わたしたちは、振動が運ぶ知に、自らを調律する術を持っているはずです。
その時代その場所における、不透明性の中に。